能登半島地震レポート〈1〉―地震発生と能登営業所の被災―


令和6年1月1日16時10分、石川県能登地方で最大震度7を観測する地震が発生しました。

利水社の能登営業所がある穴水町では震度6強の揺れを観測。この地震により能登営業所は社屋の一部が損壊する被害を受け、現在もなお復旧の途上にあります。

より困難な状況にある方々や企業様もいらっしゃる中ではありますが、災害の記録として、地震当日から現在までの能登営業所の歩みを、数回に分けレポートでお伝えします。

社員の親族宅(輪島市)

社員の自宅周辺(輪島市)

利水社能登営業所には、1月1日時点で20人の従業員が所属。

全員が穴水町や近隣の市町に在住しており、地震発生の瞬間はそのほとんどが自宅や親族宅で過ごしていました。

また本社従業員の中にも、能登方面に自宅がある者が若干名。正月ということもあり、帰省先である能登の市町で被災した者も数名いました。


社員の体験談です。

Sさん(輪島市にて被災)

実家近くの神社で妻と子供と初詣をしていた際に一度目の地震があり、駐車場に戻って車に乗ろうとしたときに二度目の地震(本震)に襲われました。チャイルドシートと車のドアを押さえたまま、立っていられないほどの揺れで、収まった時には神社の入り口の石碑が倒れ、通ってきた道路の法面が崩れているのが見えました。

道が通れる状況ではなかったため、その日は車中泊をして過ごし、翌日近くの集会所を自分たちの手で即席の避難所にして、車で立ち往生していた人たちも集まって30人ほどで過ごすことになりました。

1月4日には市街地にある自宅に戻ることができたのですが、断水・停電していて暮らせる状態ではなく、逆に田舎のほうが雪を溶かして水にできたり、発電機があったりと便利で、結局1週間ほど集会所で過ごしました。力仕事をする人、炊き出しをする人と自然と役割分担が決まっていき、助け合いながら生活していました。

Mさん(穴水町にて被災)

自宅で大きな揺れを感じた直後、海に近い場所であったため、警報を待たずに家族4人で車に乗り込みました。子どもはパジャマ姿で裸足でしたが、一刻の猶予もないと思い、そのまま押し込んで高台を目指しました。

アスファルトの割れた道を車のボディをこすりながら移動しましたが、電柱が倒れていたり、崩れた土砂が道を塞いでいたりしたため、それ以上山道を進むことができなくなり、車を置いて歩いて高台へ向かいました。

幸い津波が来ることはなかったものの、暗くなってしまったため途方に暮れていると、山の反対側から移動してきた方が車に入れてくださり、一家で一晩お世話になることができました。

その夜は、自分が近くの施設を回って調達した寝具や、開放された自動販売機からもらった飲み物で過ごし、翌日自宅に戻って状況を確認した後、野々市市の親戚の家に身を寄せました。


多くの従業員が混乱の中にありましたが、地震発生の翌1月2日には、能登営業所の近くに住み、車での移動も可能だった社員が、社屋の状況の確認に赴きました。

能登営業所の外観

看板

エントランス

オフィスフロア

書庫

エアコンダクトと換気扇

外観からは建物が傾いているといった被害は見受けられなかったものの、看板が横倒しになり、エントランスの扉や窓が割れ、ガラスが飛び散っていました。オフィス内に入ると、パソコンなどの機器や書類が床に散乱。直後の状況を目にした社員によると、建物や設備のダメージも計り知れず、正直営業再開は難しいのではないかという印象だったそうです。

同日、金沢市内にあるエオネックスグループ(エオネックス、利水社、湯ネックス)にて緊急会議が開かれ、まずは従業員の安否確認と、安全確保を優先すること等の方針が立てられました。

翌1月3日からは、穴水町周辺の従業員を中心に、可能な限りの水や食料を持ち寄り、不足している家庭への配布を開始。

上記のとおり営業所は使用できる状況ではなかったため、町内にある比較的被害が小さくアクセスの良かった社員の自宅を中継所とし、被災した従業員が物資を取りにきたり、そこから配送したりという方法が取られました。

通信状況が悪く、未だ連絡の取れない従業員や、一度安全は確認できたものの再び通信が寸断されてしまった従業員もいるなか、先の見えない手探りの日々のはじまりとなりました。